長野県最北と上信越のブナ原生林と八ヶ岳・2005年

八ヶ岳美術館から阿久遺跡(原村

八ヶ岳西南麓へ

    7月16日

   オテル・ドゥ 八ヶ岳テラスの朝。

  支払いを済まして、八ヶ岳テラスと別れた。支払いに「季節料金」との名目が何だか解からないと家内が悩んでいた。

   井戸尻公園の「歴史民俗資料館」の伯母さんに蓮は何処ですか? 尖石考古館で朝が見ごろ!よ言われたので、早速!資料館は明日小松様に逢いに来ます、といって早速撮影に入る。 もう沢山のカメラマンが来ていた。

   

   

   古代蓮をテーマにHPを作成して見る。お楽しみに! 撮影を終わり、「八ヶ岳美術館」へ走る。阿久遺蹟復元土器の展示を撮影。早速、原村埋蔵文化財収蔵庫の場所を教えて貰い、昼の食事のそば処「おっこと亭」を紹介して貰い、富士見町まで走る。 驚いた「そば処 おっこと亭」予約制! しかも土曜日の昼時であることを忘れていた。 40分待ち行列。  待たして貰い早速、本場のソバ料理を! だけど我々関西人には何か物足りなく、粘りがなくソバがサクイ感じだったが美味しかった。    時間があったので料金所の主人と親しくなり、色々とソバ談義を聞かせて貰った。

美術館プロフィール

Profile

 八ヶ岳美術館は信州の原村・八ヶ岳山麓に建つ、豊かな自然に抱かれた高原のアート・ミュージアムです。文化功労者で日本芸術院会員であった原村出身の彫刻家・清水多嘉示氏による作品の寄贈を契機とし、1980年(昭和55年)に当時では全国的にも珍しい村立美術館として開館しました。
 主なコレクションは清水多嘉示の彫刻と絵画、原村出身の書家・津金寉仙の書です。また、原村の位置する八ヶ岳山麓一帯は、遥か古代に縄文文化が華開いた地域でもあります。村内各遺跡の発掘調査により出土した土器や石器などの貴重な考古学遺物を美術作品と併せて展示しています。
 美術館の建物は建築家・村野藤吾の設計で、連続ドーム型の大変ユニークなデザインです。また、標高1,350mにある美術館の周囲を巡る散策路では彫刻の屋外展示と共に四季折々の山野草が楽しめます。

八ヶ岳山麓には様々な芸術家が工房を構え、制作に勤しんでいます。当館は年間を通して、こうした作家を紹介する企画展を開催しています。
 美しい芸術作品に出会い、八ヶ岳の澄んだ空気を満喫する、すがすがしい高原の休日をどうぞゆっくりお楽しみください。

八ヶ岳美術館HPより(原村歴史民俗資料館)

   早速、待望の原村埋蔵収蔵庫へ走る。場所は中央道路建設での発見で「諏訪南SA」がその場所だから大体わかった。途中、スーパーがあったので、キリンラガーの350L×12を購入(持参の24缶入りが無くなった為)して現地で担当者を待つ。2時40分頃、来てくれて、早速、鍵を開けて、大体の説明から御自由に撮影をしてください!と。 家内と二人で盛んにシャッターを切る。

  原村埋蔵文化センター担当者平出氏に色々話を聞かせてもらった。阿久遺跡の傍に収蔵庫があり一帯が埋め戻された遺跡跡で別れてから、一周・高速中央道の諏訪南SAの下になっている。可也大きなムラが存在したことになり、

古代遺跡・遺物のスライド写真集

  阿久遺跡・山梨県埋蔵文化財センター・今福 利恵

 中央自動車道を東京から名古屋方面へ向かい、甲府盆地を過ぎた辺りから目の前に八ケ岳連峰が立ちはだかる。次第に坂がきつくなり、標高1000mを超える高速道路最高点を過ぎた辺りから緩く下っていく。諏訪南インターを過ぎ、高圧電線の鉄塔が左側に平行している辺り、八ケ岳山麓の縄文時代遺跡群となる。阿久遺跡もその一つである。よく注意すると中央道原パーキングを過ぎた高速道路右側に民家風の保存収蔵庫が見える。ここが阿久遺跡の見印である。

 八ケ岳の西麓で緩い西斜面となり、阿久川と大早川にはさまれた長細い尾根上の台地となっている。標高は905mと縄文時代の遺跡の中でもかなりの高地にある。

 阿久遺跡は中央自動車道の建設に伴って発見され発掘調査が行われた。昭和51年のことである。この発掘によって遺跡のほぼ三分の一が調査されたが、全体像を伺い知るまでには至っていない。しかし、従来の知見を覆すほど前例の無い成果があった。 多数の竪穴住居跡の他に、配石を伴う大規模な祭祀場跡が発見されたのである。八ケ岳周辺では縄文時代中期の大規模な遺跡は、井戸尻遺跡や尖石遺跡など幾つかは知られていたが、やや遡って縄文時代前期となると実体はよく分かっていなかったのである。

 阿久遺跡の調査から今日まで諏訪を中心とする当地域では、縄文時代前期になると集落規模が大きくなり、塩尻市矢口遺跡では全国に先駆けて環状集落が形成されるなど、かなり発展した様相があることがわかってきている。阿久遺跡もその中の一つで、文化的な熟成を向かえて体現された集落である。

 遺跡の範囲は、この尾根上に南北250m、東西500mの広さに展開しており、その全域約55.000uが現在国指定史跡として保存されている。

 発掘調査で最も注目されたのはこの時期にはよく分かっていなかった祭祀場跡である。石を沢山使って形成されたもので、尾根に沿って長軸120m、短軸で90m、幅が30mほどの範囲にドーナツ状に密集していた。石は乱雑ではなく、直径1mほどで浅い穴に拳大から人頭大の石が数百個詰め込まれた集石群があり、これが270基以上も集まってドーナツ状となっている。その景観はまさしく賽の河原のようである。そして集石群で囲まれた中には板状の石を伴う直径1mほどの土抗が770基以上あった。墓標のような小さな立石をもつ墓抗と考えられている。この環状に配された集石群更に墓抗群の中心部には石柱が建てられ、又石板が回廊状に立っていたのである。石は柱は、幅35cmの角柱状で長さは120cmほど、遺跡から少なくとも10km以上離れたところから運び込まれた特別な石材である。

 この石材の周りには火を焚いた形跡があり、焼けた痕跡があり、見られた。更にこの石柱の前には、2mおきに二枚で一組となるよう8枚の板石が回廊状に並んでいた。板石は高さ120m、幅60cm前後であり、石柱と共に発見されたときは倒れていた。これらを立て直してみると、石柱から回廊状の列石を見通した先に八ケ岳連峰の最北に位置する蓼科山が聳え立っている。墓抗を中心とする祭祀場は、山岳とも関連するのであろうか。

 蓼科山(2530m)は諏訪富士と呼ばれるほど綺麗な円錐形をしており、長野県の各地からもよく目立つ山である。北八ケ岳の北端に位置するが、独立峰のようにその裾野を広げている。

 阿久遺跡の東側はこの蓼科山が最北にあり、南側に向けて北八ツ、八ケ岳と続く。八ケ岳は南北方向に連なる連峰で、一番北側の山が天狗岳(2645)で、その右側が硫黄岳(2765)、横岳(2829)、阿弥陀岳(2805)、赤岳(2899)、権現岳(2704)、編笠山(2523)と、幾つもの峰が南へ連なっている。この八ケ岳北端の天狗岳が阿久遺跡において夏至の日の出の位置にあたる。この時期は季節的にも梅雨期であり、なかなか日の出を見ることが出来ないが、日の出の位置は、天狗岳北側の丁度稜線がくぼんだ辺り(黒百合平)からの斜面にかけてになるようである。その日から冬至にかけては幾つもの八ケ岳の山の峰を日の出ポイントが通っていく。

 縄文時代前期に阿久遺跡で、数百という集石群や土抗群そして其の中心となる石柱と回廊状の列石からなる大規模な祭祀場が全国に先駆けて形成された。その個々の性格から集団墓地で祖先崇拝のようなものがあったと推定されるが、それだけでは不十分である。石柱・列石と蓼科山、更には日の出と八ケ岳の関係について、つまり阿久遺跡を取り巻く自然現象や景観を含めた中にもその性格の一端を現している可能性がある。

 この地方の縄文文化の高揚期において、更に高度な精神性が具現され、こうした祭祀場が形成されたのであろう。

 阿久遺跡

 30万個もの石を集めて築いた、巨大な環状の祭祀場。「環状集石群」と呼ばれる祭祀場跡、学術的な新発見が相次いだ原村柏木の国史跡「阿久遺跡」貴重な遺構は「縄文時代観をくつがえす発見」とまで言われる。

 集石群は、立石・列石の周囲を墓穴と考えられる千墓以上の穴が取り囲み円状の構造。

 原村教育委員会文化財係りの平出氏さんは「発掘に慣れた我々でさえ、これはただごとじゃない。圧倒された」と振り返る。

 規則的に配置された集石群は、「阿久ムラ」が一定の計画に基づき造られたことを物語る。平出さんは「集石群の規模と当時の平均寿命を考えても、構築には数百年の時間がかかる筈。その間に生きた何代もの人々が、脈々と意思を受け継いで造り続けた、まさの、悠久の世界です」と感慨深め!

 文化の高さを裏付ける遺跡は、原始的な生活を想像しがちな現代人の縄文時代観をくつがえす資料となった。異例の速さで国史跡に指定された。

 現在、貴重な遺構は盛土で保存され、中央道の下で眠っている。出土した土器や石器の一部は県立歴史館(更埴市)や原村歴史民俗資料館(八ヶ岳美術館)で公開。(天竜川水紀行・長野日報HP)

  私個人は、青森県の小牧野遺跡を想像しながら鑑賞してきた。

   

   

   

上記写真は「阿久遺跡」、原村パンフレットより

   

上記写真は青森県の小牧野遺跡スートーンサークル

    原村として他の市町村に囲まれて素晴らしい存在ですねと話し、美術館や歴史資材などの話をしていたら、彼曰く、間もなく無くなる(原村が?)のでは?とやはり存続に不安を描いていた。企業収入がないのと資料館を造っても4億かかって半分は国から出るが、残りの半分2億は原村には無いし、存続に電気代も出ればよいが無理だろうと! 収蔵庫の撮影をさせてもらい立ち話で、別れた。中央道を挟んだ阿久遺蹟の雰囲気を一周して撮影してきた。

   

   

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