「白神山地を守るために」鎌田孝一(発行、1998年9月15日)

 白神山地のブナ原生林の保護運動が始まったのは今から16年前、1982年(昭和57年)。

  1990年、白神山地から森林生態系保護地域に指定された。「水の森を守ること、次代をになう子供たちのためにこの貴重な森を悔いの無い形で残すこと」。1992年に環境庁から「白神山地自然環境保全地域」に指定され、1993年12月、日本自然保護協会が国に働きかけて世界遺産条約にもとづく世界遺産として登録された。世界遺産だけが白神山地だと思い込んで訪れる多くの人々に、白神山地はもっと広大で、その隣接地にも素晴らしいブナ林が残されている事を伝えたい。季節ごとに異なった美しさを見せるブナ林や植物に魅せられた人々の顔、そして、駒ケ岳や小岳の山頂から見る遺産地域の山魂群や樹海に感動して再訪を約束される人びとの顔が、保護運動で大きく揺れた町をよみがえらせる灯火のように感じてならない。

 「縄文の遺跡」

  1989年(平成元年)の秋、素波里ダムで土器が見つかった。素波里ダムは粕毛川景勝地の上部に位置する。出土した土器は三千年から五千年前の縄文中期から後期のもの。この縄文遺跡に接する事で、白神山地の豊かな落葉樹林の様子の一端がうかがい知ることが出来た。何千年ものあいだ引継ぎ守られてきたブナ林が、近代文明の機器によって、わずか五十年にも満たない間に切られてきた。永続性のない林業施業がもたらしたものは、一時的な資源であり一時的な雇用でしかなかった。経済的豊かさにのみ走りすぎ、環境問題を考えない切捨て御免の過去の時代を反省する気持ちが、真の森林資源の開発にどれだけ生かされていたのだろうか。古代の人々の声なき声を聞いてみたいものと思っている。わづかに残った白神の自然を、現在に生きる者として現状のまま遺すことの重要性を感じた一瞬でもあった。

 縄文からの遺産

   この町村の人々にとって、この山地は生活に密着した、かけがえのない財産であり、それぞれの地域の高い山は信仰の場所としての名残りを今もとどめている。山の周辺から湧き出る泉、その水を神聖なものとして大切に持ち帰る人は今も変わらず多い。そして、その水を造り出すもとになるのは一滴ごとの雨水を捉え、小枝から太い枝や幹へと伝えて地中に染み込ませる落葉広葉樹の中のブナである。「水」という生命の原点を見つめた時、ブナの木は東北の人々にとって最も大切な森のシンボル的存在であることは、拒めない事実だと信ずる。白神山地の保護運動の原動力の一つは、「水」を守る事にあった。縄文の昔から、人々は水の流れにそって住居を構え、生活文化を築いてきたのではなかろうか。東北のブナ林は縄文からの遺産、といっても過言ではないと思う。しかし、そのブナの森は東北の各地から消えていった。わずか四半世紀のうつに、である。豊かな植物相が、数多くの動物を育むばかりか、その一員である人間の生活の糧となっていた。その縄文の遺産がわずかしか残っていない。その希少な遺産をどうして残して、後世に伝えられるのかが、世界から課せられた日本人への宿題だとおもうのである。

 白神NGOの活動、水の汚濁、ゴミの山

   「資源」の乏しい国が他国からの資源供給を得て、加工技術を駆使して経済大国にまでのし上がった末のこうした行動は、果たして妥当だろうか。白神山地内の道路、特に車道沿いのいたるところに投げ捨てられる缶類。秋田県藤里町では、十団体がボランチア活動で山地は無論のこと、観光地に至る道路の全てを清掃し、登山道や奥地林道は、自然保護団体や自然を守る少年団の活動でクリーンアップの成果は上がっているものの、観光、山菜やキノコ採り、釣りなどの自然の恵みを受けている人々のマナーは、なぜこうも悪いのであろうか。缶類を持ち帰り、それを集めて再生資源として活用する方法や技術開発を国自体が考えていかなければ、資源の食いつぶしにつながる。「自然保護を考えるなら、貴重な森林と思われる地域に車道を造らせてはならない。」ブナ林の伐採を中止させる事は、口でいうほど簡単ではない。ブナ林の伐採を止めると言う事は、ある面で彼ら(膨れ上がる赤字の中で、働く労働者の大半は、営林署の所在地に居住している)の職場を奪う事であり、たとえその職場を失ってもそれに代わる職場を他に保証できるのか、という問題も生じる。彼らの生活権を誰が保証するのか。さらに言えば、日本は諸外国の森を食いつぶそうとしているという批判が多い中で、事務機器の発達にともなって、“紙”の使用量がますます増大している。こうした需要に応じるための供給源をどうするのかを考えなければいけないのではなかろうか。再生紙をもっと活用する方向すら整っていない。古紙の大半がゴミとなって焼却されていることも問題だ。自然保護団体が町村部に創設されない最大の理由の一つは、地元の居住者には営林署または林業、建設業に勤めている人が多いことにある。運動をおこそうとしても、知人、友人そして親族といった人たちがそうした職についているからで、林道の建設伐採問題に関して、将来必ず地域にとって自然の荒廃につながることは判っても、組織作りをして保護運動などの問題を起こす事は、大きな危険がある。その例として、秋田県八ツ森町を基点とする「広域基幹林道清秋線」建設工事(1982年)問題で、白神山地のブナ林を守る為の保護運動に立ち上がった私たちを支援し、同時に八ツ森町の自然を守る為にと保護団体を結成し立ち上がった秋田豊君は、地元町民の嫌がらせや建設業からの圧力、町からもちろん、最後には村八分の手痛い仕打ちを受け、胃潰瘍で入院せざるを得ない羽目におちいった。そしてついには、保護団体も消されてしまう事になる。1973年保護運動開始時は24名いた会員が、11名の脱落者がでる。会員の中には営林署員2名、藤里町役場の要職としての課長が2名。営林署労組からは「つるし上げ」を受け、署長からは自然保護団体からの脱会の指示され。県からは藤里町の補助事業の資金カット、町政に多大な圧力が増し、課長2人の保護団体からの脱会を余儀なくされた。家内は藤里町の出で、ノイローゼになるほどの仕打ちを受け、写真業を営む私には、関連する官公庁や業者からの締め出しによる収入の減少、運動のために私財を担保に資金作りという難関。

 白神山地は学習観光の地に

   白神山地は旅行業者の“目玉商品”になりつつある。とくに秋田新幹線「こまち」の開業、1998年に大館能代空港の開通で、新しい企画が組まれた。過疎と老齢人口の多い町として、観光による流動人口の増大、関連産業おこし、そして経済振興を計るのが目的である。 白神山地の名称が全国的に知れ渡るにつれ、湯の沢温泉地域に建てた「ホテルゆとりあ藤里」の施設利用。 この保護運動を通じて感じたことで、保護を必要とする白神山地を取り囲む、外側の、豊かな自然景観の地に、もっともっと注目して欲しいと。観光業者との話し合いの場で私は、白神山地は学習観光という目的のもとに訪れてほしい、「ブナの価値について、ブナの植生と地域の人々との生活との結びつき、そしてブナ帯文化を学ぶ旅にして欲しい」と依頼してきた。私は「幹線路としての二ツ井・藤里・西目屋線の拡幅や舗装はあっても、それ以外の登山口あるいはブナ林に至る支線(林道)は、拡幅も舗装もしない考えであり、町もその方針であるので、町に大型バスで乗り入れた場合は、マイクロバスに乗り換えて目的地に入ってほしい。そしてマイクロバス一台ごとにガイドをつけ、林内の説明も一グループ多くても23名ほどにしないと、林内の植物を踏み倒す結果になるので、そのてんを配慮した{学習観光}にするようにして頂きたい」。自然を求め、自然に親しみながら、自らの心身を癒す喜びを知る人々は、砂利道で道路が狭くとも注意をしながら入山して来る。道路の拡幅・舗装は心無い人々が多数入山する事を招きかねない。植物の盗掘、ゴミ捨て、暴走による事故、公共物へのいたずらという問題が生ずるばかりか、歩道以外の踏み荒らし等が発生しない保証がない。ある銀行の「トピックス」に、ブナ1ヘクタールあたりの効用についての記事。「二酸化炭素の吸収は年間48万トン、放出される酸素は約36トン。遺産登録された白神山地の総面積は17000ヘクタールなので、同地域の製造される酸素量は年間約61万トンとなり、これは61万人分に当たる」。また樹齢200年のブナの木一本に約8トンの保水力がある、「仮に白神山地のブナの樹齢が平均200年とすると、今回の指定地域内には約270万立方メートル(約90万本)のブナがあることになり、その保水量は720万トンにのぼる。 白神山地は、ここに育成する他の樹種を合わせると、さらに多くの水を貯え、酸素を供給してくれる素晴らしい森である。うっそうとした落葉広葉樹に覆われていた当時、平地から見ると山地は雲にかくれていることが多く、平地では晴れていても雨が降り続いているときさえあった。しかし1975年以降は、伐採のまだら模様の広がりが目につくにしたがって、雲の湧き上がるにが少なくなったのである。

白神山地
森林生態系保護地域
(世界自然遺産)

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