胡桃館遺跡(くるみだて)と蝦夷

胡桃館遺跡と蝦夷

「胡桃館遺跡」35年目の大発見

〜当時出土した木簡の解読に成功、人名の記録が明らかに〜

秋田県鷹巣町のストーンサークル・伊勢堂岱遺跡


 このほど、文化遺産の総合的な研究を行っている独立行政法人奈良文化財研究所の調査・研究によって、鷹巣町の胡桃館遺跡(平安時代中期の古代家屋遺跡)の遺物から、貴重な発見がありました。

 発掘が行われた37年前に出土した木簡の文字の解読に成功し、人物などの記録が明らかになったのです。その内容を、同研究所の研究員と、町の担当者の説明でご紹介いたします。

▲木簡の表面
出土直後ともいうべき1968年頃に撮影されたガラス乾板が残されており、今回の木簡解読のきっかけとなった

▲木簡の裏面
表面と上下逆向きに文字が記されている

▲解読できた部分(表面-赤外線デジタル写真)
帳簿の書き出しにあたる部分で、赤外線デジタル写真には文字が鮮明に写っている



胡桃館遺跡発掘当時のようす(昭和40年代)

■  胡桃館遺跡とは?
 胡桃館遺跡は、現在の鷹巣中学校のグランド整備中に発見された、今から千年前(平安時代)の遺跡です。1967年から3年間にわたり秋田県教育委員会と鷹巣町教育委員会によって発掘が行われました。当時の発見を憶えている方も多いと思いますが、平安時代の建物がそのままの形で出土したことで有名になりました。  ( 出土遺物の一部 復元模型

  なぜ残ったのか?
 普通、建物の柱や板などの木材は地中に埋まっていると腐ってしまいます。なぜ当時の建物が残っているのでしょうか?その理由は十和田火山の噴火にあります。現在の十和田湖は約千年前(一説によると915年)に噴火しました。その噴火の規模は有史以来の日本最大級のものと言われています。

 鷹巣には火山灰はあまり降らなかったようですが、米代川を大量の土石流(シラス洪水)が流れ、流域の村々を飲み込んでしまいました。火山灰を含んだ土に埋もれたことで腐らずに残ったようです。よっぽど被害が大きかったのか、その様子は「八郎太郎伝説」として現在まで語り継がれています。

■  どんな人が住んでいたのでしょう
 平安時代、この地域の人々は『蝦夷(えみし)』と呼ばれていて、天皇の支配が及んでいない土地でした。そのような地域に、胡桃館のような高度な建築技術で建物がみつかったり、遺跡からは「寺」と読める文字を書いた土器や、お経を読んだという記録の落書きがみつかっています。ということからもこの地域を治めるような人物が住んでいたのではないでしょうか。

(鷹巣町教育委員会生涯学習振興課主事 榎本剛治)

 以下は、広報たかのす3月1日号に掲載させていただいた、奈良文化財研究所平城宮跡発掘調査部・山本崇研究員の寄稿です。

  よみがえった文字
 1967年に胡桃館遺跡から出土した木筒について、2004年、あらためて解読を試みた結果、出土から37年をへだてて文字を読み取ることに成功しました。

 なぜ今になって解読できたのか、その理由は大きく分けて二つあります。一つは、木簡の解読に用いる機器が進歩したことです。墨は赤外線を吸収する性質をもつため、木簡の解読には、赤外線テレビカメラ装置や、赤外線デジタル撮影が有効です。

 これらの機器を駆使することで、当時は読み取れなかった文字を解読することができました。もう一つの、より根本的な理由は、比較検討するための類例が格段に増えたことです。木簡が出土した1960年代末の段階には、全国出土の古代木簡は、2万2千点余りで、胡桃館木簡のような特異な形状のものはほとんど知られていませんでした。

 現在、全国出土木簡の総数は32万点以上、古代木簡だけでも23万点を超えています。出土数が増えるにつれ、文書や荷札に限られない、豊かな木簡利用の実態が明らかにされています。今回の木簡解読は、数十年に及ぶ調査研究の蓄積に支えられているのです。

●  木簡が語ること
 今同解読できた木簡は、一辺約22pのほぼ正方形の板材で、四隅に孔があります。この孔は釘孔のようで、木簡が建物のどこかに打ちつけられていたと推測されます。胡桃館木簡には、表裏両面に文字が書かれています。表面には、一行に13文字以上、少なくとも6行以上の文字が残っており、裏面には表とは上下逆さに3行分、文字が記されています。

 ただ、裏面の文字は墨が薄れてしまい、現状ではほとんど読み取ることができません。表面1行目は、「月料給出物名張」と読めそうです。「張」は「帳」の意味で用いられますから、この木簡は、ある月に支給した物の名を記した帳簿と考えられます。2行目の下部には「玉作麻呂/米一升」の文字もみえます。他に「玉作」「建マ(部)」と読める可能性のある人名、「米三合」「五合」などの品目と数量がみえ、表面には、人名+「米」+支給した米の量を列記しているようです。

 同じ頃の出羽国に、「玉作宇奈麻呂」や「玉作正月麻呂」という人物が活動していたことは、文献資料から知られていました。「玉作」姓の人が、木簡という、古代の生の史料からも確認されたことで、今後、新たな事実が浮かび上がる可能性を秘めています。まだすべての文字が解読できた訳ではなく、詳しい内容は今後の調査にまたねばなりません。

 もちろん、胡桃館遺跡で注目される遺物は文字資料だけではなく、出土した建築部材は、古代の建物を考える際の良好な資料群といえます。これらの資料の総合的な検討により、遺跡の性格が明らかにされていくと期待されます。なお、この木簡の詳しい内容は、今月刊行れる『秋田県埋蔵文化財センター研究紀要』第19号に紹介しています。興味をもたれた方は、図書館などで是非ご覧下さい。

  鷹巣の宝として
 木簡は、千年以上もの間、地中の豊富な地下水に守られてきました。そのため、見た目は丈夫でも実際には非常にもろく、空気中に放置すると、急速に乾燥して壊れてしまう恐れすらあります。現在、乾燥を防ぐために、防腐剤を含む水に浸した状態で保管しています。

 しかし、木簡を水漬け状態で保管することは難しく、孫や曾孫の代まで伝えていくためには、保存処理を行なう必要があります。胡桃館木簡は、近々保存処理の作業に入る予定です。処理を終えた木簡は、生木に近い色調に仕上がります。現在黒ずんでいて読みとれない文字の解読にも、期待がもたれます。さほど遠くない将来、処理を終え、より解読の進んだ木簡を、北秋田市民となられている鷹巣町の皆様に、お披露目することができるでしょう。

 胡桃館木簡は、鷹巣の古代史を今に伝える生き証人であり、学術的にも極めて高い価値を持つ、貴重な文化財といえます。今回解読できた木簡が、周辺に今なお埋没していると推測される遺跡とともに、町の「宝」として長く保存され、活用されることを願っています。

 (奈良文化財研究所平城宮跡発掘調査部研究員・山本崇)

  


(鷹巣町教育委員会生涯学習振興課主事 榎本剛治)

 以下は、広報たかのす3月1日号に掲載させていただいた、奈良文化財研究所平城宮跡発掘調査部・山本崇研究員の寄稿です。

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   胡桃館遺跡:木簡、38年ぶりに解読 発掘当時、技術なく /秋田

   鷹巣町の平安時代の胡桃館(くるみだて)遺跡から出土した木簡から、北東北で朝廷に敵対した蝦夷(えみし)と見られる人たちに対し、朝廷の役人が米を支給したことを示す墨の文字が確認された。最先端技術を駆使して、発掘から38年ぶりに解明された文字に、関係者らは朝廷と蝦夷が対峙(たいじ)した古代史の謎に思いを巡らせた。
 同遺跡は67年、現在の町立鷹巣中グラウンド造成中に発見され、県教委と町教委が発掘調査を実施。4棟の建物跡や柵列のほか、木簡、木器など、平安時代中期(9世紀末〜10世紀初め)のものと見られる遺物が出土した。発掘当時は古代の木簡について高度な解読方法がなく、長い間そのままとなっていた。
 独立行政法人・奈良文化財研究所(奈良市)の解読によると、木簡は表面に「月料給出物名張」と書かれ、ある月に支給した米の帳簿と見られる。下部には「玉作麻呂」ほか、「玉作」「建マ(部)」との文字があり、おのおのに対し、「米三合」「五合」などの数量が列記されている。
 蝦夷が朝廷に対し反乱を起こした元慶の乱(878年)では、朝廷側についた蝦夷の族長として、「玉作宇奈麻呂」「玉作正月麻呂」らの名前が確認されている。「玉作」姓の人物が、今回の木簡解読からも確認されたことで、今後はその関連性に注目が集まる。
 熊田亮介・秋田大教授(歴史学)は「朝廷の役人と蝦夷の人たちとの関係を考える上で貴重な史料」。同町教委は「蝦夷が住んでいたこの地は、これまで朝廷の支配が及ばないとされてきた。しかし建物跡から想像できる高度な建築技術から、この地を治めた朝廷側の有力人物の館跡と予測される」と話している。【田村彦志】


3月2日朝刊

(毎日新聞) - 3月2日16時10分更新

木簡に蝦夷の人名 秋田・鷹巣の胡桃館遺跡 県北まで朝廷支配か


秋田県鷹巣町の胡桃館遺跡から出土した木簡の赤外線写真。右下に「玉作麻呂」などの文字が見える(秋田県鷹巣町教育委員会提供)

 秋田県鷹巣町綴子の胡桃館遺跡(9―10世紀初めごろ)で見つかっていた木簡が、コメの支給状況を墨で記した帳簿であることが、1日までに同町教育委員会と奈良文化財研究所(奈良市)などの調査で分かった。帳簿は朝廷側の公文書とみられ、東北地方などの先住民の蝦夷(えみし)とみられる人名も記されている。これまで当時の朝廷支配は秋田城(秋田市)付近までと考えられてきたが、今回の解読で支配がさらに北の秋田県北部にある蝦夷の集落にまで及ぶ可能性が出てきた。

 同町教委によると、木簡は一辺約22センチ、厚さ1.1センチの正方形。1967年に出土したが解読が困難だったため、奈文研が2004年から赤外線テレビカメラなどを使って再調査。表側に帳簿を示す「物名張(帳)」など5行、23文字を確認し判読した。
 木簡には「米一升」などコメの支給量のほか、「玉作(たまつくり)麻呂」ら数人の蝦夷とみられる人名も確認した。

 蝦夷が秋田城を襲撃した878年の元慶の乱で、朝廷側について戦果を挙げた蝦夷の有力者「玉作宇奈麿」や「玉作正月麿」と同姓であることから、関連が注目される。
 胡桃館遺跡ではこれまで、4棟の建物が確認された。板材を横に積み上げた構造で、蝦夷で一般的な竪穴住居などとは異なる建築様式。中からは読経の記録が書かれた扉などが見つかっている。

<支配地外にも影響/東北歴史博物館の工藤雅樹館長(考古学)の話>
 当時の朝廷が強い支配力を持っていたのは、蝦夷支配の拠点だった秋田城(秋田市)までと考えられていたが、木簡の記述は、秋田城以北の直轄支配地外にも朝廷の直接支配が及んでいたことをうかがわせ、古代史を考える大きな史料となる。

<蝦夷の概念変わる/秋田大教育文化学部の熊田亮介教授(日本古代史)の話>
 朝廷直営の出先機関で、蝦夷の人が朝廷の任務に就き、コメを受け取っていた可能性が出てきた。北東北の蝦夷と朝廷の関係を解明する貴重な資料で、蝦夷の概念が大きく変わる発見だ。

[胡桃館遺跡]秋田県鷹巣町綴子の町立鷹巣中敷地内で1963年に発見された。秋田県指定有形文化財。県、町の両教委が67年から3年間、本格的な発掘調査を行い、建物4棟のほか、土器など約120点が出土。遺跡は915年に起きたとされる十和田火山の噴火による土石流で埋まった村とみられている。

河北新聞2005年03月01日火曜日

蝦夷に朝廷が米支給 秋田・胡桃館遺跡の木簡判読(ASAHI,COM)

赤外線で解読した胡桃館(くるみだて)遺跡の木簡(表面)=秋田県鷹巣町教委提供

 秋田県鷹巣町の平安時代の集落跡「胡桃館(くるみだて)遺跡」から出土した木の板が、米の支給を記した帳簿とわかったと同町教委が1日、発表した。9世紀末から10世紀初頭ごろの、行政の記録らしい。一帯は、11世紀半ばまで京都の朝廷の支配が及んでいない「蝦夷(えみし)の地」とされてきたが、朝廷側の出先があった可能性が高くなった。

 木の板は37年前の調査で見つかっていたもので、約22センチ四方。このほど奈良文化財研究所が赤外線装置で調べたところ、蝦夷らに米を支給した記録が墨の文字で書かれていることがわかった。「玉作麻呂」「米一升」などと受け取った人の名前と米の量が記されていた。

 熊田亮介・秋田大教授(古代史)によると、胡桃館遺跡では4棟の建物が確認されているが、周囲の蝦夷の住宅とは構造がまったく違い、集落の性格をめぐり議論が続いてきた。発見された木の板は朝廷側の行政の記録とみられるという。

 「出羽の国府の出先のような形で、蝦夷の地に何らかの役人が常駐していたことが考えられる。古代の北方社会の支配の状態や、蝦夷と朝廷側の関係を考えるうえで貴重な資料だ」と熊田教授は話している。 (03/01 11:01)


最新技術で木簡解読-37年前に秋田の胡桃館遺跡で出土

   奈良文化財研究所は1日までに、37年前に秋田県鷹巣町の胡桃館(くるみだて)遺跡(10世紀初頭)から出土した木簡(一辺約22センチ)に記された文字の一部の解読に成功した。撮影機器などの進歩や木簡資料研究の蓄積が主な要因で、米の支給や人物名が読み取れた。今後、遺跡の性格や同地域の古代集落、古代東北史の研究の上で貴重な資料になるものとみられ、同研究所の研究の深化が、当時の東北地方の文化や歴史の実相解明に寄与することになった。

 木簡は出土当時から文字が記されていることは分かっていたが、類例資料も少なく何が書かれているか判然としなかった。その後、木簡は同研究所に保管されていたが、木簡資料の整理に伴って再調査。当時はなかった赤外線テレビカメラや赤外線デジタル撮影など最新技術を駆使して文字の解読を試みた。

 また、これまでに古代木簡資料が当時の10倍以上の23万点を超え、一つの文字からほかの文字を推察できるといった研究の蓄積も増大。文字の解読につながった。

 木簡の表面で読み取れたのは、「月□□出物名張」「米一升」「五合」など、ある月の米の支給に関して記したとみられるものと、「玉作麻呂」という人物名だった。この人物は、九世紀後半に同地での活動が文献に残る「玉作正月麻呂」や「玉作宇奈麻呂」など、「玉作」一族に関係するのではないかと推察されている。

(2005.3.2 奈良新聞)

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