縄文の モニュメント


縄文人の空間認識
・縄文ランドスケープと縄文カレンダー(小林 達雄著抜粋)


  昨年2003年9月、三内丸山遺跡・大湯遺跡・小牧野遺跡・伊勢堂岱遺跡でのストーンサークルを探索してきました。次回は真脇遺跡・チカモリ遺跡・桜遺跡を探索して、ここにランドスケープとしての小林 達雄氏の文面は解りやすく理解できて、縄文のカレンダーを採用することにしました

大湯遺跡@ 大湯遺跡A
お湯遺跡B 小牧野遺跡@
小牧野遺跡A 伊勢堂岱遺跡
チカモリ遺跡 真脇遺跡

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  縄文ランドスケープ

  自然的秩序からの独立と縄文世界の形成(小林 達雄著より抜粋)

 縄文革命

 縄文革命とは、長い旧石器時代の遊動的生活から定住的なムラを営む新規の生活様式への転換を意味する。

 つまり、旧石器時代即ち人類は自然的秩序の中に生かされてきたのに対して、縄文定住生活は自然的秩序から分離独立して人間的秩序の構築に着手したのである。勿論、自然と縁を切ると言うことではなく、より正確には自然的秩序とは別に、人間的秩序をも意識する方向に足を踏み出したのである。その第一の契機は、定住のための空間=ムラを自然の一画を切り取って、縄文人間のために、縄文人が積極的に確保したところにあった。それまで、自然の一要素として、イノシシやクマ・シカ或いは鳥類と同様に自然の秩序の中にがっちりと組み込まれていた状態から脱却し、自らの拠るべき独自の空間で、独自の活動を展開する取っかかりを得たと言う意味は極めて大きい。縄文人の自分意識は、まず第一に自然から切り取った人工的空間の充実化と、縄文人が分離独立した原郷土としての自然との対極化との相乗作用によって確立したと見ることが出来る。まさに縄文人の主体性の確立である。縄文人の主体性の確立は、自然的秩序とは別の人間的秩序の形成に関与しながら、いわゆる縄文的社会の実現の契機となった。

  縄文人の世界観としてのカタチ化としての記念物(モニュメント)

 記念物とは、規模が大きく、誰の目にも目立つところに特色がある。だから膨大な人手と時間を要するものでありながら、しかもそれは縄文人の有する技術の単純な延長線上に期待できる程度を遥かに超えた、想像を絶する高い次元に属するのだ。

 縄文人の記念物を代表する大湯ストーンサークルの構築一つとっても、2〜3人がかりでも動かすのが容易ではないほど大きく重い石を含む、5500個以上の数を道無き道を7kmも運搬している事実を改めて重視せざるを得ない。それだけの労力と時間を投入する記念物も、結局は「腹のたしにはなら無い」代物であり、まさにウドの大木の名差しさえ拒むことが出来ない。しかし、現代に生きる我々にとって、いかにも理屈に合わないその性質こそ、縄文人独自の記念物の本領があったと見なくてはならない。あえて、穿った見方をすれば、縄文人の世界観を目で見えるカタチに変換したものが記念物なのである。

 縄文人の世界観は、同じ生業を下地に、四六時中、共同歩調をとりながら、互いの暗黙の了解を積み重ねて、言葉の説明や対話抜きで、自ずと醸成されてゆくのである。その集団の合意或いは総意がカタチを媒介として確認され、カタチの構築作業を通して確信を強めてゆく効果が記念物の存在意義であり、社会的機能でであった。

  縄文人の記念物に三種類

 大別すると、一つは、石を並べてカタチとする。二つは、木柱を立て並べる。三つめは、土を盛り上げるなどである。

 石を並べる。草創期の可能性を示す例の他、少なくとも早期中葉に出現し、晩期まで続く。規模の大小、円、方形を基本とする。又、一定の形態にデザインされた独立性を主張する単位が組み合わさり、連続して、全体として円形となるストーンサークルなどが重要である。特に中期末から後期の東日本での発達が目覚しい。

 木柱は、一直線に間隔を置いて並べて建てるものや、四本を諏訪の御柱風に立てたり、六本を長方形に並べたり、十本で円形に立てる典型例がある。又、巨木の柱痕を柱穴の底部の大部分、殆ど全てがクリ材である事実も重要である。(10月の北陸の旅計画に、真脇遺跡・チカモリ遺跡・桜遺跡を計画)

 土盛りは、円環形或いはその環の一部が切れて、開口の恰好をとる馬蹄形があり、東京湾の貝塚地帯を中心として、関東の後、晩期に多い。環状貝塚や馬蹄形貝塚も、環状の土盛りの施設としての記念物そのものズバリ、或いは記念物の観念と共通するものと推定される。

  記念物の機能と象徴性

 記念物は、概して規模の点だけから見ても、日常的な生活が必要とする各種施設とは明瞭に区別される、目立つカタチを持つ存在であり、それ自体の主体性には歴然たるものがある。その実現の背景に要求される労力や長期に亘る年月によっても、縄文人の生活或いは縄文社会に占める物理的意味からも、その現実的な意義の破格性を如実に示している。しかも、日常的な損得勘定とは別次元にあるところに、記念物がその象徴性を強く示唆する根拠がある。記念物はそれ自体のカタチのみで自己完結するものはない。縄文人集団の意志によって実現し、維持され、そして存続を保証されるのだ。記念物を有するムラなかや、記念物の周辺からは土器、石器が大量に出土する。特に、いわゆる儀礼や呪術的即ちマツリに関わる「第二の道具」が多種多様出土し、その量も多い。それぞれの第二の道具の種類に対応するマツリの各種が執り行われていたことを物語っている。

 つまり、記念物とは、多目的祭祀の場として機能するシンボルであった。

 ところで記念物、とりわけストーンサークルなどについて、共同墓地であったとする仮説が根強い。ストーンサークルを構成する小単位の組石の下部土中に墓穴が設けられていると予想され、土抗が掘り込まれている例も無いわけではない。或いは甕棺のような深鉢の埋けられた例もある。けれども、ストーンサークル全体からみれば、極く少数に限られていて、構築に動員された人数の10分の1にも満たない事実を忘れてはならない。つまり、ストーンサークルの関係者全員の共同墓地としての容量を遥かに下回っているのであって、墓地説は決して成立しない。しかし、埋葬施設を思わせる気配は皆無ではない。それ故に、たとえ埋葬墓があったとしても、それは集団の中の極限られた人物とならざるを得ず、記念物の性格、集団の象徴性の一端を示す要素の一つと理解される。

 とにかく、ストーンサークルをはじめとする記念物の墓地説は、この際思い切りよく捨象する必要がある。せいぜい墓地的要素が含まれていたという程度に留めるべきであろう。

  縄文人の空間認識・縄文ランドスケープと縄文カレンダー

  記念物が、空に浮かぶ整然とした神奈備型の三角山を遠望していたのは紛れも無い事実である。そしてこの事実に輪をかけて重要な縄文人の空間意識の実態が明らかになってきている。それは少なくとも縄文中期に始まる。三角形の山を典型とする山頂(峰)と山頂と山頂との谷合いのシルエットを、単に景色の中に見ていただけでなく、記念物の設計造営に関係させていたのだ。換言すれば、記念物の設営地点の選定を、そうした山頂から昇る朝日の位置及び夕日の沈む位置をはっきり設計の中に採りこんでいるのだ。

 石川県真脇遺跡の中期中葉に、三本の柱痕が等間隔に並んでいた。二本の柱なら、結びさえすれば直線を作り、柱の位置関係によって、方位も考えられる。しかし、三本で直線を作るには、正確に一線に並べる計画的な作為が必要とされる。真脇の三本は柱が一直線をなすのは、その意味で縄文人の意識が断固として働いていた結果なのだ。その方位の延長線上には、立山連峰の南端の山頂をきちんと指している。しかも、その山頂には、冬至の日に太陽が落ちて沈むのだ。

 縄文ランドスケープの中における記念物の重要性に対する評価は疑いも無く、確かなものであった。更に、縄文人は既に、二至二分を認知し、それを記念物の設計に取り込んでいた事実はいよいよ実証されつつある。縄文人に純粋天文学少年がいたわけでは無い。ただ、ムラを整備して縄文人が自らの空間から周囲の自然を対象化し、自然への知識を深化させてゆく過程で、朝日、夕陽を定点観測していたのだ。そして長年の観測の蓄積により、二至二分の認知を築いたと見ることができる。

 つまり、春分、秋分には、真東から太陽が昇り、真西に沈む。春分が過ぎると日毎に日の出、日の入りの位置は北にずれてゆき、その北の極限が夏至に当たる。夏至の翌日から一日毎に南に移動して、秋分には再び真東から真西に落ちる。やがて秋分後は、秋の釣瓶落としの譬え通りに、日足は急速に短くなり、稔りの秋を過ぎるころには木枯らしが吹き、冬将軍の到来となる。その間、日の出、日の入りは南へ動き続けて、南の極限が冬至となるのだ。冬至こそが世界の再生の起点ともなり、そうした信念、観念が冬至のマツリを促し、世界各地を見る。

 縄文人は、こうして二至二分を知ったわけであるが、決して太陽の動きを天文学的動議から追うのが目的だったのではない。むしろ、朝日、夕陽を観察することで、天気予報を知り、仕事の段取りを相談する。二至二分だけでなく、細かく山並みのシルエットで、夏至の10日とか5日前などの日の出、日の入りの位置を知ることも出来たはずである。まさに東や西の連峰がそのまま日暦みと同じ働きをしていたのである。

 これは純粋天文学でも何でもない、いわばそこに生まれ、そこに生きた縄文人の身に付いた生活の知恵とも言うべきものと言えよう。

 縄文人は、そうした日の出、日の入りの位置を縄文人の年間スケジュールの基準として縄文カレンダーを作成し、記念物も又それに一役買って、象徴性の意義を高めたものであった。

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